 【2010年04月22日】 春如四季
“四季如春”という。一年中,ぽかぽかと春のようであることを言う。中国も南,昆明あたりの気候が四季を通して穏やかなことを形容する言葉だ。
日本も今春である。ところが,最近の天候ときたらどうだ。まるで,
春如四季
ではないか。「春,四季の如し」と読む。つまり,春なのに,四つの季節,春,夏,秋,冬が全部やってきたようだ。先日は夏日だったというのに,今日は冬に逆戻りだ。
この言葉,中国人の友人から聞いた。いたく感心したので,ご披露まで。
それで思い出す四字成語がもうひとつある。
春捂秋冻
というものだ。これは中国の健康法だ。“春捂”とは「春は上から服をおさえる」,つまり暖かくなったからといって,容易に服を脱がないことを言う。春はすぐに寒い日がくるからだ。
それに対して“秋冻”とは「秋は凍える」,つまり少し寒くなったからといってすぐに沢山着こまないことを教える。少し我慢して寒さに慣れるべきことを言う。
春にしろ秋にしろ,どちらも季節の変わり目には用心すべきことを言う。
 【2010年04月06日】 紙の辞書
長年編集にたずさわっていた『講談社中日辞典<第三版>』がようやくできあがった。 紙の辞書である。変な言い方だが,最近はなんとなく電子辞書に押されて紙の辞書がかえって新鮮だ。
例えば“我们 ”なんて引いてみる。何の期待もしていない。ところが「“我们”と“咱们”」という類義語コラムに出会う。それだけでうれしいではないか。
またパラパラとめくっていると“走”のところには,数枚イラストが入っている。“走调”(調子がはずれる)とか“走气”(空気が漏れる)とか“他走了”(彼は亡くなった/彼は出かけた)などがでている。何となく“走”の意味がわかったような気になる。これもうれしい。
さらに「住宅と間取り」などという文化コラムにもぶつかった。見ると,最近の住宅取得の話やマンションの間取りなどについて触れている。昔はこんなコラムもなかった。
いつまでもパラパラめくって,あっという間に小一時間も過ごしてしまった。そういえば,学生時代はよくこんなふうに辞書をいじり回していた。
電子辞書と紙の辞書,最近何かと比較されることが多い。 そんなある日,1人の先生と話をする機会があった。5,6年間,高校生や専門学校の生徒さんに中国語を教えたという。偶然,話が辞書に及んだ。
生徒の中には「紙の辞書」派と「電子辞書」派という二つのグループがあった。彼女は何となく,どちらの学生が伸びるかを興味を持って観察したという。 するとこんな違いに気がついた。「紙の辞書」を使用していた学生のほうが,新出単語に出会ったとき,それにピンインがついてなくても,なんとなく推量で読めていたと言うのだ。
これは面白い発見だ。 紙の辞書を引く,どうしてもいやでもその前後を見る。 例えば“炒”という語を引いたとする。すると,その前後には“吵”,“抄”,“钞”などがある。似たような字があるものだ。発音も同じだったり,微妙に声調が違ったりする。どうしたって,詳しく見てしまう。気をつけて見ないと間違ってしまう。 するとそれだけで知見が広がる。こうして何となく発音の勘みたいなものができてくる。実際,この発音の勘というのが最も大事なのだが,これが紙の辞書を引くことによって繰り返し鍛えられるのだ。
もう一つ,こんな感想をその先生は話してくれた。 「紙の辞書」を使用していた学生のほうが辞書の例文をよく覚えていたように思います。 これも当たり前のようだが,実は大事な一点だ。辞書にはいろいろな意味が載っている。そして,それぞれの意味の「典型的」な用法が例文として載っている。それを読むわけだ。日本語でたとえば「つらい」という語を引く。すると「男はつらいよ」なんてのがあれば,これはまさにぴったりの用法ではないか。そういう,ぴったり,これこれ,という例文を目にする。それは深く印象に残るのである。
電子辞書だって,同じく典型的例文を見られるではないか,という反論が聞こえる。それはその通りだが,はっきり言えば「その場滞在時間」が違うのである。紙の辞書では,滞在時間が長い。だから,あちこち前後を読み,多くの例文を眺める。電子辞書は,わからないことが解決するや,即座に辞書から目をそらす。滞在時間が極端に短いのである。これは何故なのか,じっくり考えるべき問題だと思う。 かくて,「紙の辞書」を使用していた学生のほうが比較的中国語の成績がよかったように思います,と彼女は結論づけていた。
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